年古りし友 グランドピアノ (長文)


今年もコロナでこれまで、ステイホーム生活であった。
お散歩はすることにして、どちらかといえば、用事がなければ家で好きなことをしている私だが、二年間となると、さすがに飽きてきた。

お昼ごろには、ヨシケイさんが、毎日食材を配達してくれ、買い物は土日くらい、好きなものを買いに行って食べる。

我が家は、お昼ご飯は自由なので、夫と一緒に食べたり、一人で簡単にすませることもある。
サンドイッチとコーヒーもたまには好き。
夕食はちゃんと作るが、皿洗いは夫がしている。
夫は退職して、洗濯も皿洗いもアイロンがけもするようになった。

⭐皿洗いとアイロンがけ
私は結婚して、結婚生活は皿洗いだ。と思っていたことがあった。
毎日毎日せっせと皿洗い…。
私は夫の仕事のワイシャツを洗濯、アイロンするのが大の苦手だった。
今は解放されて、楽になった。
主婦業は正直、これと言って好きではない。
好きではないけど、できる事ではある。

⭐古き友 ピアノ
私は6歳からピアノを習い、アップライトを弾いていたが、30年前に上の写真のグランドピアノを購入した。
こんな重いピアノと一緒にお嫁にも行き、御弟子さんもとって、今は日本、海外からのピアニストも来て弾いてくれている。
テレビの収録も来ていただいた。
あらためて、私の人生の横にあったことを思う🎹
そしてもうひとつはキーボード(電子ピアノ)だが、これはシャンソンをやりはじめて必須。
ボタンひとつで調が変えられる。

⭐学校の仕事とレッスン
結婚してしばらくはコンサート活動はやめていた。
これは、私自身、別にやりたいとは思わなかったから。
結婚前からやっていた仕事は結婚後も継続してやっていたので、仕事も主婦業もしていた。
この頃は、県立高校の音楽科の講師を経て、短期大学の講師で行っていたし、自宅でも歌とピアノ、出張レッスンも少ししていた。
一日、10人くらいの生徒様のレッスンをしていたかな。

今行っている看護学院の講師は、もう33年になるが一番長くなった。
いつまで行くのだろう…が正直なところ。
以前一緒に勤務していた国語の先生が80歳を越えていたのだが、私もピアノを弾けなくなるまでか(笑)

⭐ごはんは一人
夫は仕事人間で、現役時代は平日は夜10時にならないと帰って来なかった。
私は遅い遅いと言っていた。
夜ご飯も一緒に食べた方が美味しいけど、夫の亡母が
「裕美ちゃんの身体を壊したらいけないので、先に食べてちょーだい」
とほんとうに心配して言ってくれた。

思えば、ずっと一人ご飯だったなぁ。
さっさと出来立て、揚げたてのご飯を一人で食べ、夫が夜帰って来たら、また温めなおして食卓に出し、皿洗いは翌朝に回す。
(それが今や毎日、いやでも一緒に食べるようになって…昔のように静かにひとりで食べる時間が懐かしい。笑)

⭐夫の母の死
結婚して2年半たった頃、夫の母が亡くなつた。
父から急な知らせがあったのは、夕方、ピアノの出張レッスンをしていた時だった。
心臓が弱っていて、血圧の薬を一週間前に変えたばかりだった。
夜ご飯も作り、夫婦で話していた父の目の前で倒れたのだった。
夫はショックで、毎日夕ご飯を食べたら布団に入り寝るばかり。
この人どうしたんだろう?
6ヵ月くらい続き、私と夫の父は心配して、「何か夢中になることをさせないといけない」と言うことになり、私のお茶の先生の紹介で夫は陶芸を始めた。
それからずっと陶芸は続いている。

それまで、私達は文字通り新婚生活で、一人より二人、楽しいことは倍になり、そうでないことも二人で分け合えた。

土日になると夫は、実家でひとりになった父のお世話をしに行った。
母が急死したので、父ひとりになり親孝行したいという思いが強かったようで、一日中仕事のように出かけて行き、夕方のご飯には帰って来ていた。

親子も相性があるかと思うが、男同士でも相性はよく、夫は思う存分、父の世話をしていた。
私は食事を届けていた。

⭐夫の転勤 二重生活
この後、追い風が吹き、その年の秋には夫は松山に転勤の辞令が出た。
生徒様のレッスンや学校の仕事のため、私は月曜日から木曜日まで働き、木曜日の夕方になると、高速バスで二時間先の夫のいる松山に行った。
土曜日には二人で香川に夫の車で帰って来て、日曜日の夕方には、夫は一人で松山に行った。
そんな繰り返しの日々の二重生活が4年間続いた。 
今思えば、よくこんな事をしていたなぁ…と思う。

⭐しっぽのある天使 愛犬ルーシー
松山と香川の二重生活はガソリン代金を撒き散らしているような生活で、公共料金も二軒分で赤字の暮らしであった。
唯一の楽しみは松山のデパートめぐりであったが、これは十分に楽しんだけど(笑)
三年でちょうど限界、辛抱してもう一年…疲れた。
こんな暮らしをしていると逆に家で落ち着きたい願望が大きくなり、園芸にあこがれ、犬も飼いたくなっていた。

私は香川で犬と暮らそうと思い、いい犬を探していた。

年があけて節分頃、犬の専門家の人から、横浜のブリーダーさんのところで、「パピヨンのチャンピオン直子が産まれた」と朗報があった。
白茶のメス犬で、子犬の写真を送ってもらい、20万円でその子犬をひきとることにした。
ルーシーは飛行機に乗り、遠い香川県まで、私を幸せにするために来てくれた。

⭐山あり谷あり
それからの丸亀のマンションでの愛犬ルーシーとの生活は、私にとって最高に幸せな生活となった。
こんなことを言うと変かもしれないが、無人島でもルーシーとなら過ごせると思ったほど。
仕事や用事で外出しても帰るのが楽しみで、可愛いかった。
夫婦はやったもん勝ち。
とこの時思った(笑)
夫は今度は松山から徳島に転勤になり、仕方なく、寮母さんのまかないつきの会社の寮に入った。
食堂でご飯を食べ、部屋で何かあれば、ボタンひとつで寮母さんにつながる。
単身者向けの立派な寮だった。
私はこのときの2年間は何も心配することはなく、平日はルーシーと過ごし、土日は通い夫となっていた。
人生は山あり谷あり。
悲しみの後には喜びがあるもの。
ボーナスをもらったような……ルーシーとの穏やかでささやかな日々。

私達は夫の父の世話は続けていたが、母が亡くなり5年後、父は心筋梗塞で亡くなった。

⭐私と野球観戦
私の実家は祖父も父も医者であったが野球好きで、夜になるとテレビ、ラジオの野球の声が部屋から聞こえていた。
私は普通にルールを覚え、王、長嶋くらいは知っていたが、父はヤクルトスワローズの野村監督のファンだった。
選手時代のキャッチャーの野村から、1999年、阪神の監督になり巨人打倒をかかげ、素人の私にも興味をそそるような言い回しの「のむさん」節で野球の面白さを語った。
甲子園の巨人✖️阪神戦が、私のはじめての野球観戦だった。
すごい応援のウェーブと、野次も飛びかい…
実はその時は阪神側の応援席の中にいたもので、かくれ巨人ファンの夫はつらかったらしい(笑)
私は記念にタイガースの縦じまの帽子を買い、かぶっていたが、夫に「頭がくさる」と言われた。
恐るべし巨人✖️阪神戦…
外野の守りにつき、キャッチボールをする高橋、松井もいた。
その時は松井の放物線を描くホームランを見れた。
それからしばらく野球熱が続いた。
松山の坊っちゃんスタジアムでの阿部慎之助のルーキー年の試合では、サインボールを夫がキャッチしたりして興奮した。
東京ドームでの選手の試合前の練習、広島市民球場での長嶋監督を入り待ちした時の感激、新幹線のホームで佐々木大魔人と目の前でバッタリ会ったことなど思い出深い。
野球は人生そのもの。
檜舞台の選手のユニホーム姿、ゆったり球場で野球を見るのが好きだった。
ひとつ悔いがあるのは、イチローの試合を見たかったことである。


⭐ルーシーの二世誕生と子育て
愛犬ルーシーは美人で賢く、喋れないだけで、幼稚園児の知能と、お留守番が一人でできていたので、小学生の子供くらい。
大学もやらなくても良いし。
しかし犬の寿命は短く小型犬は15年くらいである。
それから私はルーシーの二世誕生を願い、専門家の人の協力を得てルーシーの生涯ただ一匹の夫ジュニアと出会った。
小雪の舞う松山のペットショップの庭でジュニアとルーシーははじめてゲージ越しにお見合いした。
翌年の春の桜の季節に松山で交配、そして妊娠した。
このことはルーシーはどう思ったのか聞くことはできなかったが、私は多分よかったと思った。
喜んでいたことにしておこう。
その年の4月に夫は二年間の単身生活を終え帰って来た。
ルーシーは5月には無事に3匹の子犬を出産し、期待に応えてくれた。
いきなり、夫と犬4匹との生活になり、子犬が生まれて50日間はルーシーも私も子育てに専念した。
母犬の母性にも感心したのだった。
犬に学ぶものもたくさんあった。
アリア、アポロ、そして養子に行ったムサシ。
アリアはメスで辛抱強くおとなしい。
乗り物でも全く泣かないし無駄吠えもしなかった。
アポロはオスで毛並みがフサフサで情の深い犬だったが三回の骨折。
犬はメスが飼いやすいが情の深いのはオス。
亡くなったのは皆平成1年であった。
ルーシーは18年間生きてくれ、たくさんの幸せを運んでくれた。
いい犬だった。


アポロ 7月 16歳
アリア 10月  16歳
ルーシー 12月 18歳
ムサシ  12月 16歳
天国で一緒にいることだろう。


⭐四国を襲った台風と夫の実家
最近は10月でも台風が来るようになり、夏の時期は昔の日照りの渇水から大雨や土砂崩れの被害に変わり、質が悪くなった。
平成16年も大きな台風が四国地方を襲った。
平成14年に夫の父が亡くなり、仏壇は実家にあったので、法事は実家でしていた。
3回忌が終わった頃、大きな台風が来て、川に近い実家は満潮時と重なり床下浸水した。
通りは、道路と家の高さが同じ古い商店が多く、翌日には近所の人達が水を掃き出す様子が目に焼き付いている。
私も堀ごたつに溜まった水を掻き出し、家の中は、ブルーシートを敷き歩くようになり、一度でボロボロになった気がした。


⭐ギャラリーのある家を新築
小國家の先祖の方がこの土地に住み始めたのは家系図によると江戸時代の末期であった。
二代目が生まれたのは1856年(安政3年)、三代目は夫婦養子(夫の祖父母)、四代目は夫の父、そして五代目が夫。
鰻の寝床のように細長い奥深い町家風の土地で、大正9年に三代目が建てた蔵があった。
蔵にはかつて、小作米が入っていたらしい。

私達はこの蔵は残し、他はすべて解体し、家を建てた。

人生で一度、一番大変なことであった。
夫は53歳、私は47歳になっていた。


✏️これより先の「年古りし友 グランドピアノ」のエッセーは、「note 」の方に移動することになります。
~準備中~




















小國裕美 オフィスイマジン office imagine

シャンソンに愛された歌姫、小國裕美のブログです。 イマジン代表 小國裕美ランチ、ディナーコンサート Oguni ZENTSUJI FRENCH RESTAURANT にて 2024年11月2日、3日 皆様とスペシャルなひととき、幸せな日となりました すべてのお客様、スタッフの皆様に深謝しつつ

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